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マチュピチュとは:段々畑に並ぶ、かやぶき屋根を復元したインカの石造りの家
マチュピチュガイド

マチュピチュとは?歴史と謎、名前の意味、インカ帝国との関係をわかりやすく解説

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マチュピチュとは、インカ帝国の皇帝パチャクテクの離宮として15世紀に造られた遺跡です。標高約2,430mの尾根にあり、2021年の放射性炭素年代測定では1420年ごろから1530年ごろまで人が暮らしていたことがわかっています。名前はケチュア語で「老いた峰」。1983年にユネスコ世界遺産に登録されました。

1420年ごろ
人が住み始めた時期(年代測定)
2,430m
遺跡の標高
500〜750人
最盛期の居住者数
1983年
世界遺産に登録
このガイドの内容
  1. マチュピチュとは
  2. 名前の意味
  3. いつ造られた
  4. 誰が何のために
  5. 石積みと建て方
  6. 住んでいた人々
  7. なぜ放棄された
  8. 発見当時
  9. 主な神殿
  10. インカ帝国とは
  11. マチュピチュと日本人
  12. 世界遺産
  13. 謎と誤解
  14. よくある質問

マチュピチュとは?

マチュピチュは要塞でも「失われた都市」でもありません。考古学者の間では、インカ皇帝の一族が持つ私有地の中の離宮だったという見方で一致しています。ペルー文化省は公式に「リャクタ・デ・マチュピチュ」(マチュピチュの集落)と呼んでいます。

2,430m
二つの山にはさまれた尾根の標高
32,592ha
歴史保護区の広さ
700以上
段々畑の数
1,542,350人
2025年の訪問者数

遺跡はクスコ県にあり、クスコの町から直線距離で約75km、ウルバンバ川の谷を見下ろす位置にあります。周りの雲霧林も保護されているため、文化遺産と自然遺産の両方を兼ねる「複合遺産」として登録された、数少ない場所のひとつです。

場所や見学ルート、遺跡の地図はマチュピチュはどこにある?で詳しく紹介しています。

マチュピチュの意味:現地語で「老いた峰」

インカの言葉ケチュア語で、マチュは「老いた」、ピチュは「峰」。マチュピチュは「老いた峰」という意味で、遺跡の背後にそびえる山の名前です。写真でおなじみのとがった山はワイナピチュ、「若い峰」です。

ただし、インカの人々はこの町を別の名前で呼んでいたようです。2022年、歴史家ドナト・アマド・ゴンザレスと考古学者ブライアン・バウアーが植民地時代の文書やビンガムのメモを調べ、元の名前は「ピチュ」、おそらく「ワイナピチュ」だったと結論づけました。

  • 1568年の文書に、皇帝の領地の村としてピチュが登場する。
  • 1588年、ビルカバンバの住民が「ワイナピチュに戻りたい」と訴えている。
  • ビンガム以前の1904年の地図帳に、インカの村ワイナピチュの遺跡が記されている。

「マチュピチュ」という名前が遺跡に定着したのは、1911年以降、ビンガムの発表がきっかけです。今から名前を変えようという話はありません。

マチュピチュはいつ造られた?

長い間、建設は1450年ごろとされてきました。これはスペイン人の年代記をもとに、アメリカの歴史家ジョン・ロウが1945年にまとめたインカ皇帝の年表から来た数字です。

2021年、イェール大学のリチャード・バーガーらの研究チームが、遺跡周辺の4か所の墓地で見つかった骨と歯の放射性炭素年代を26点測定し、学術誌『アンティクイティ』に発表しました。結果は1420年ごろから1530年ごろまで途切れずに人が住んでいたというもので、従来の説より少なくとも20年早くなりました。

ウルバンバ川沿いのチャチャバンバ遺跡、マチュピチュと同じ15世紀のインカの集落
ショート・インカトレイルで最初に訪れるチャチャバンバ遺跡。年代測定ではマチュピチュと同じころか、少し古いとされています。

建設に何年かかったかはわかっていません。よく聞く「5,000人が20年かけて造った」という話には根拠がありません。確かなのは、町の一部が未完成のまま残っていることで、遺跡には造りかけの神殿もあります。

誰が何のためにマチュピチュを造った?

マチュピチュを造らせたのは、第9代インカ皇帝パチャクテク(パチャクティ・インカ・ユパンキ)です。クスコ周辺の小国を大帝国に変えた人物で、1568年の土地をめぐる裁判記録に、ピチュの土地が「インガ・ユパンギ」、つまりパチャクテクの領地だったと書かれています。

この文書を見つけたロウは、ピチュを国の施設ではなく皇帝個人の領地と考えました。宮廷が季節ごとに過ごす離宮であり、ウルバンバ川下流域を征服した記念でもあったとされます。

建設を担ったのは、労働で税を納めるミタ制度で集められた人々です。ふだん住んでいたのは貴族ではなく、皇帝一族に仕える使用人でした。

ほかの説

  • 聖地説:人類学者ヨハン・ラインハルトは、町の配置を周りの聖なる山(アプ)と結びつけています。
  • 巡礼地説:イタリアの考古天文学者ジュリオ・マグリは、巡礼の目的地として計画されたと考えています。
  • 「失われた都市」ビルカバンバ説:ビンガムが唱えましたが誤りです。ビルカバンバはずっと西のエスピリトゥ・パンパでした。

現在は最初の二つを合わせた、宗教的な役割を強く持つ皇帝の離宮という見方が主流です。

マチュピチュの石積み:どうやって造った?

材料はその場で切り出した花こう岩で、モルタル(つなぎ材)は使っていません。遺跡の中には今も石切り場が残っています。神殿はすき間なく削った石を組み、住居は小さめの石で素朴に積んでいます。

実は、工事のほとんどは見えない場所にあります。1994年からマチュピチュを調べている技術者ケネス・ライトは、建設の労力の約60%が地下の基礎と排水路に費やされたと推定しています。測定値ではなく、専門家の推定です。

129か所
町の中の排水口
749m
湧き水を引く水路の長さ
16
連なる石の泉(水汲み場)
1,960mm
ライトによる年間降水量

年に2m近い雨が降る場所で町を守ってきたのは、石垣より排水です。ライトは「マチュピチュが500年もっているのは、排水が良いからだ」と話しています。段々畑も、畑である前に斜面を支える土留めの役目を果たしています。

モルタルを使わずに積まれたマチュピチュの段々畑と石垣、その上を流れる雲
段々畑は作物を育てる場所であると同時に、急な斜面を支えて水を逃がす仕組みでもあります。

地震のときに石が「踊って」元に戻る、という話はどうでしょう。遺跡は断層の間にあり、モルタルなしの石組みが揺れに強いのは確かですが、それを証明した地震学の研究はありません。「カミソリの刃も通らない」すき間も、丁寧に造られた主要な建物に限った話です。

マチュピチュに住んでいたのはどんな人?

皇帝が滞在する最盛期で500〜750人、それ以外の時期は数百人の使用人が暮らしていたと推定されています。人口調査の記録はなく、考古学者による推定です。

2023年に『サイエンス・アドバンシズ』誌に発表されたDNA分析では、遺跡周辺に埋葬された34人を調べました。わかったのは、住民が帝国の各地から来ていたこと。海岸、アンデス、アマゾンと出身はさまざまで、約3分の1ははっきりしたアマゾン系の祖先を持っていました。

彼らは皇帝一族に一生仕えるヤナコーナ(使用人)と、選ばれて奉仕したアクリャ(女性)でした。家族ごとではなく一人ずつ連れて来られ、ここで家族を持ち、洞窟や岩陰の浅い墓に葬られました。

マチュピチュはなぜ放棄された?インカ帝国の滅亡

理由は、離宮を支えていたインカ帝国そのものが滅びたからです。年代測定の結果は1530年ごろで途切れ、通常の暮らしは1540年ごろまでに終わり、1572年には完全に無人になりました。

  • 皇位をめぐる兄弟ワスカルとアタワルパの内戦
  • 1532年からのスペインによる征服
  • 1520年代から広がった天然痘などの疫病(マチュピチュの人口が減った直接の証拠はありません)

よく「スペイン人はマチュピチュの存在を知らなかった」と言われますが、これは誤りです。ピチュの名は1568年と1588年の文書に出てきます。ただ、スペイン人がここを壊したり教会に造り変えたりしなかったため、遺跡はほぼそのまま残りました。

発見当時のマチュピチュとハイラム・ビンガム

アメリカ・イェール大学のハイラム・ビンガムがマチュピチュにたどり着いたのは1911年7月24日。彼が世界に紹介したことで有名になりましたが、最初に来た人ではありません。案内したのは地元の農民メルチョル・アルテアガで、ビンガムは銀貨1ソルを払いました。

  • 発見当時、遺跡にはリチャルテ家とアルバレス家の二つの農家が住み、インカの段々畑で作物を育てていました。遺跡を案内したのはその家の少年です。
  • 1902年には、クスコの農民アグスティン・リサラガがすでに訪れていました。ビンガムは三つの窓の神殿の壁に、炭で書かれた彼の名前を見つけています。
  • 1874年のヘルマン・ゲーリングの地図には、すでに「マッチュピチュ」「ワイナピチュ」と山の名前が書かれています。

1912年と1914〜1915年のイェール大学の調査隊は、出土品をアメリカへ持ち出しました。裁判の末、イェール大学は2011〜2012年に46,635点の遺物と破片をペルーに返還しています。特に貴重な366点は、クスコのカサ・コンチャにあるマチュピチュ博物館で見られます。

今ではビンガムの名前が、マチュピチュ行きの豪華列車の名前になっています。当社のハイラム・ビンガム号で行くツアーでも乗車できます。

太陽の神殿などマチュピチュの主な神殿と見られる場所

神殿の多くは、町の高い区域にある聖なる広場の周りに集まっています。インカには文字がなかったため、それぞれの役割は考古学者の解釈です。天文観測所として本格的に研究されているのは、太陽の神殿だけです。

マチュピチュの地図で見る主な神殿

123456100 mN
  1. 1太陽の神殿下に「王の墓」
  2. 2石切り場
  3. 3聖なる広場主神殿、三つの窓の神殿
  4. 4インティワタナ
  5. 5聖なる石
  6. 6コンドルの神殿
公式の地図と同じ向きで、入口が左、ワイナピチュが右です。

© OpenStreetMap contributors

建物役割見られる場所
太陽の神殿聖なる岩の上に建つ半円形の塔。6月の冬至には朝日が窓から差し込むサーキット2で上から、3で近くから
王の墓塔の下の洞窟で、彫り込まれた壁龕がある儀式の場。皇帝の墓は見つかっていないサーキット3-Bで外から
三つの窓の神殿東向きに大きな窓が三つ並ぶ壁。1902年のリサラガの落書きがあるサーキット2
主神殿三方を壁に囲まれ、大きな石の祭壇がある建物サーキット2
インティワタナ彫刻された岩で、祭壇や聖なる場所(ワカ)とされる。「太陽をつなぐ場所」という名は後世のものサーキット2で下からのみ
コンドルの神殿翼を広げたコンドルに見える自然の岩サーキット2と3
マチュピチュの太陽の神殿:聖なる岩の上に石を組んで建てられた半円形の塔
上から見た太陽の神殿。曲線を描く石壁が、彫られた岩を囲んでいます。

ガイドの決まり文句には注意が必要です。たとえば「三つの窓はインカの三つの世界を表す」という話には根拠となる資料がありません。遺跡は8人につき1人の公認ガイドと見学するので、気になることはその場で聞いてみてください。

インカ帝国とは?マチュピチュを生んだ文明

インカ帝国は自らをタワンティンスーユ(「四つの地方」)と呼び、首都はクスコでした。最大時には、今のコロンビア南部からチリ中部、アルゼンチン北西部まで広がっていました。

大きく領土を広げたのはパチャクテクからで、従来の年表では即位は1438年です。マチュピチュの新しい年代測定は、即位がもっと早かった可能性を示しています。帝国は、1532年のカハマルカでのアタワルパ捕縛から、1572年の最後の皇帝トゥパク・アマルの処刑までの間に滅びました。

クスコのコリカンチャ、サント・ドミンゴ修道院の下に残るインカの太陽神殿
クスコのコリカンチャは、太陽神インティを祀ったインカ帝国でもっとも重要な神殿。スペイン人がその上に修道院を建てました。

この写真が、マチュピチュが残った理由を物語っています。首都クスコでは、スペイン人がインカの石垣の上に教会を建てました。主要な道から離れた谷の私有地は誰にも必要とされず、そのまま残ったのです。

マチュピチュと日本人:初代村長・野内与吉と大玉村

遺跡のふもとの町マチュピチュ村(アグアスカリエンテス)の発展には、一人の日本人が深く関わっています。福島県大玉村出身の野内与吉(1895年生まれ)です。

  • 1917年、契約移民としてペルーへ渡り、鉄道の仕事に就きました。
  • 1920年代に、当時マキナチャヨクと呼ばれた今のマチュピチュ村に住み、3階建てのホテルを建て、水力で村に電気を引きました。
  • 1940年代に、マチュピチュ村の初代村長を務めたとされています(就任の年は資料によって異なります)。
  • 1968年に故郷の大玉村を訪れ、翌1969年にペルーで亡くなりました。

この縁で、2015年に大玉村とマチュピチュ村は友好都市協定を結びました。マチュピチュ村にとって初めての友好都市です。アグアスカリエンテスに泊まるときは、日本とのつながりを思い出してみてください。

マチュピチュの世界遺産登録と「新・世界七不思議」

  • 1981年1月8日:ペルー政府が32,592haを「マチュピチュ歴史保護区」に指定
  • 1983年12月:ユネスコが世界遺産(文化と自然の複合遺産)に登録
  • 2007年7月7日:リスボンで「新・世界七不思議」のひとつに選ばれる

よくある誤解ですが、「新・世界七不思議」はユネスコとは関係ありません。民間団体New7Wondersによる投票で、ユネスコははっきり距離を置いています。遺跡を守っているのは、1983年の世界遺産登録です。

マチュピチュの謎と誤解:空中都市と呼ばれる理由

マチュピチュの別名は「空中都市」。山の尾根の上にあり、ふもとの谷からは見えないことから、日本ではこう呼ばれるようになりました。「失われた都市」という呼び名は、ビンガムがここをビルカバンバだと思い込んだことに由来します。

  • インカが引いた湧き水は、今も石の泉を流れています。
  • 過去最多は2019年の1,585,262人。2026年の入場上限は1日4,500人、繁忙期は5,600人です。
  • リチャルテ家とアルバレス家は、1911年にもインカの段々畑を耕していました。
  • インカの石垣は二つの断層の間で500年以上崩れずに立っています。

よくある誤解

よく聞く話資料からわかること
ビンガムが発見した世界に紹介した人。それ以前に農民、リサラガ、19世紀の地図がある
1450年に造られた1420年ごろにはすでに人が住んでいた(『アンティクイティ』2021年)
大都市や要塞だった居住者500〜750人の皇帝の離宮
インカの貴族が住んでいたDNAによると、帝国各地から来た使用人が中心
60%が地下トンネルライトの推定は基礎と排水路の話で、トンネルではない
インティワタナは日時計儀式に使われた彫刻岩で、役割は今も議論中

ガイドと一緒にマチュピチュへ

よくある質問

マチュピチュとは簡単に言うと何ですか?

15世紀にインカ皇帝パチャクテクが造らせた離宮で、ペルーのアンデス山中、標高約2,430mにあります。南米でもっとも有名な遺跡で、1983年から世界遺産です。

マチュピチュの意味は?

ケチュア語で「老いた峰」。インカの人々は、この町を「ピチュ」または「ワイナピチュ」と呼んでいたとみられています。

マチュピチュは誰が造ったのですか?

インカ皇帝パチャクテクの命令で、インカの人々が造りました。労働で税を納めるミタ制度で集められた人々が働きました。

マチュピチュは何年前にできたのですか?

約600年前です。2021年の年代測定で、1420年ごろから1530年ごろまで人が住んでいたことがわかりました。

マチュピチュはなぜ「空中都市」と呼ばれるのですか?

山の尾根の上にあり、ふもとから見えないためです。日本での呼び名で、現地ではリャクタ(集落)と呼ばれます。

マチュピチュで生贄の儀式は行われたのですか?

インカ帝国では高い山の頂で子どもを捧げる儀式(カパコチャ)が知られていますが、マチュピチュ周辺で見つかった墓は、ここで暮らし亡くなった使用人たちのものです。

マチュピチュと日本の関係は?

福島県大玉村出身の野内与吉が、マチュピチュ村の初代村長を務めたとされています。2015年に大玉村とマチュピチュ村は友好都市になりました。

インティワタナは近くで見られますか?

見られません。今はどのサーキットもインティワタナの丘には登らず、サーキット2で下から眺めるだけです。

このガイドの確認方法

このガイドは、私たちが毎週これらのルートを案内する中で見ていることをもとに書いています。料金、時刻表、ルールは下記の公式サイトで確認しました。

当社は公認ガイドによるマチュピチュのツアーを催行しています。歴史に関する情報は、査読付きの学術研究とユネスコの資料に基づき、上記の日付に確認しました。

最終確認日:

Jorge Suyo
著者について

Jorge Suyo

代表・トレッキングガイド

Jorge Suyo(ホルヘ・スヨ)はトレッキングガイドであり、Inca Outdoorsの代表です。グループとともに歩いてきたトレイルを熟知しており、その経験がツアーの組み立てに生かされています。

チームを紹介
マチュピチュ

このガイドで紹介した旅

マチュピチュとワイナピチュを背にガイドと並ぶ家族2日間

聖なる谷とマチュピチュ

チンチェーロ、モライ、マラス、オリャンタイタンボを巡り、翌朝マチュピチュへ。

初級最低料金 $390
マチュピチュ遺跡とワイナピチュを見下ろす旅行者とガイド日帰り

ハイラムビンガム列車

ペルーでいちばん優雅な列車で行く、マチュピチュ日帰りの旅。行きも帰りも専用車の送迎付きです。

初級最低料金 $1240
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